英語で表現してみるとしたら何と言う?
(用英语来表达的话该什么说?)
浄土真宗本願寺派僧侶
大來 尚順撰文
先日、仕事のクライアントさんと会うために六本木へ向かっていると、地下鉄の中でふと楽しそうな声で話す英語が耳に入って聞きました。会話をしていたのは、20歳前後の日本人らしき青年と、西洋人の女性のカップルでした。その青年はネイティブのように流暢に英語をお話されていたので、おそらく生まれ育ちが外国か、帰国子女だったのではないかと思います。
(前几天,为了会见工作上的客户而去六本木,地铁中忽然听到有人在用很愉悦的英语声音交谈。讲话的是一对20岁上下的情侣,男的好像是年轻的日本人,女的是个西方人。那位青年如同正宗老外一样地说着流畅的英语,我想恐怕是生长在外国,或者是归国的子女吧。)
「せっかく」は英語でどう表現する?
(“せっかく”用英语该如何表达?)
2人の会話は、日本人と西洋人の顔立ちの違いや整形の話題を通して、お互いの容姿を褒め合うというおもしろい内容ではありました。しかし私は特に興味があるわけではなかったので、目を瞑って少し寝ようと思ったとき、急に「せっかく」という日本語が英語会話の中に出てきました。
(两人的会话是在讲日本人和西方人的脸型不同以及关于整形的话题,相互间在吹捧对方的容貌,内容很有趣。由于我对这些并无什么特别的兴趣,正想闭眼休息一会时,突然在他们的英语交谈中冒出一句“せっかく”的日语。)
日本人の容姿を羨み、整形しようかなと呟く西洋人の女性に、日本人の青年は、「Sekkaku, you have such a beautiful face, there's no need for cosmetic surgery.」(せっかくきれいな顔なんだから、整形する必要ないよ)と声をかけたのです。
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(西洋女性称羡日本人的外貌,嘀咕着要去整容。对着她,那日本青年冒出一句“Sekkaku, you have such a beautiful face, there's no need for cosmetic surgery.”[你难得这么漂亮的脸,整容完全没有必要啊!])
すると、西洋人の女性はすかさず、「What does “sekkaku” mean?」(「せっかく」ってどういう意味?)と聞き返しました。内心、私もまったく同じ質問をしたいと思いました。「せっかく」を英語でどのように表現するのか、興味があったからです。
(于是,那西洋女人立马反问一句:“What does “sekkaku” mean?”[“せっかく”这话是什么意思?]这正中我下怀,内心里正好也饶有兴趣地想知道“せっかく”用英文来表达该怎么说。)
そして、日本人の青年は「せっかく」の意味を英語で説明しようと試みようと、いくつか英単語を挙げますが、どうも上手く説明できません。なかなかこれだというものが見つからず困った様子でした。
(接着,年轻的日本人企图试着用英文来解释“せっかく”的意思,他举了好几个例子,但都不太合适。眼看他为找不到一个恰如其分的词感到很为难的样子。)
そうこうするうちに、電車が私の下車する駅に着いたので、その後彼がどのように説明したかはわかりませんでした。しかし、駅に着いてから、私だったらどのように説明しただろうかと考えてみました。
(一会儿,电车到了我下车的站头,其后他究竟什么解释的我就不知道了。但下车后,我也考虑起这个词该如何用英文来解释的问题来了。)
最初に思いついた英単語が「originally」(もともと)でした。しかし、なんとなく違和感を持ちました。もっと過去との深い結び付きなどがあって、その結果として有難いことに「今」があるというような表現はないものか考えてみたのですが、いっこうにいい英訳が思いつきません。
(最初,我想到的是“originally”[原本,当初],但总觉得有种不妥切。因为与更早的过去有着深切地联系,考虑着最终能不能表现出“现在”这样一层意思来呢?真的一点也想不出合适的英语译词。)
そして、そもそも自分の「せっかく」の日本語の解釈が正しいのか疑わしく思えてきました。なぜなら、その言葉を使う状況によっては、言葉の意味が変わってしまうからです。一見、簡単に英訳できそうな言葉なのですが、実は非常に訳し難い言葉だったことに気がつきました。
(并且,开始怀疑起自己原本对“せっかく”的日语解释是否正确来。究其原因,这个词汇是根据使用状况来改变词汇意义的。稍一看,似乎可以容易地译成英文,但实际上发觉是非常难译的一个词汇。)
「せっかく」を英語にすると
(把“せっかく”译成英语的话)
「せっかく」を英訳する前に、この言葉の日本語の意味を整理してみたいと思います。「せっかく」は日本語の副詞で、国語辞典によれば主に三つの意味があります。
(“せっかく”译成英文前,我想把这个词汇的日语意思先整理一下。“せっかく”是副词,根据国语辞典的解释主要有三个意义。)
一つ目は、「無理や苦労して」という意味です。
(第一,是“困难和煞费苦心,操心”等意思。)
二つ目は、漢字で「折角」と書き、滅多に得難い、恵まれた状況を大切に思う気持ちを表します。
(第二,汉字写成“折角”,表示内心要珍惜相当难得,来之不易的机会或状态。)
三つ目は、あまり見慣れないかもしれませんが、古い使い方で、全力を傾けて物事をするさまを意味することもあります。これは手紙文などで用いられます。例文として、「せっかく勉学に励みます」「せっかく協力を願いたい」などがあります。
(第三,也许用得较少,是古代的用法,意为竭尽全力做某事的样子。一般用于书信之中。例如:“拼命地努力学习”“希望好好地合作”等等。)
これらの意味を頭で整理し把握しておかないと、意味がごっちゃ混ぜになってしまい、英訳も難しくなります。整理したうえで英訳していくと、一つ目の「せっかく」の意味は、「eagerly」(切に)、「at great pains」(無理をするさま)、「earnestly」(熱心に)などと英語で表現できるでしょう。頑張って物事に取り組む状況が英単語からも感じとられます。
(不把这些意思在头脑中好好整理分析一下的话,就会感觉很杂乱而难以译成英语。归纳之后可以译成,第一“せっかく”的意思为“eagerly”[殷切地,迫切地,再三地];“at great pains”[困难,难以办到,好不容易];“earnestly”[热心地,认真地]等英文表达。)
二つ目の「せっかく」の意味は、「rare」(滅多にない)、「valuable」(価値ある)、「precious」(貴重な)、「fortunately」(幸運なことに)などが当てはまると思います。場合によっては、「since」(~なので)という言葉の後に理由を述べることで「恵まれた状況」という意味を強調することも可能だと思います。
(第二种“せっかく”的意思,我觉得相当于英文的“rare”[不常有,稀少];“valuable”[有价值];“precious”[珍贵];“fortunately”[幸运地]等等。根据语境不同,“since”[因为---]这个词后面叙述理由,也有强调“处于某种恩惠状态”的意思。)
ちなみに、日本人の青年と西洋人の女性との会話で使われていた「せっかく」の意味は、この二つの目の意味になります。
(顺便提一下,当时日本年轻人和西方女性的会话中使用的“せっかく”的意思,属于第二种。)
三つ目の「せっかく」の意味は、「especially」(ことさらに)、「specially」(特別に)、「particularly」(特に)などと表現できるでしょう。これらの英単語は、どれも一つに集中するという意味を含み、適切な対訳に感じられます。
(第三种“せっかく”的意思,大概可以表达为“especially”[特意地,故意,特别];“specially”[特别地];“particularly”[尤其,特别]等吧?这些英语单词无论哪个都包括着集中于某一个意思里,我觉得可以进行适当的对译。)
「せっかく」の重み
“せっかく”的份量
しかし、どうも気になるのが、二つ目の英訳です。間違いではないと思うのですが、この「滅多に得難く、恵まれた状況を大切に思う気持ち」は、英単語一つではとても表現しきれないと思うのです。
(但总有些在意的是第二个英语的译词。虽感到没有什么错误,还是觉得“要珍惜十分难得的天赐恩惠这一心情”,依凭一个英语单词什么也难以表现充分。)
仏教的観点からみれば、この気持ちは「縁起」という「物事はさまざまな偶然と偶然の事象がつながりあって成り立っている」という思想を基本とする、現実理解の表れだと考えられます。人間の推測や計算をはるかに超えた何かのはたらきかけで存在する現実は、不可思議(思議することができない)でしかありません。
(从佛教的观点来看,这种心情叫做“缘起”,体现了“事物是由各种各样的偶然与偶然事态的相互连接而成立”这一基本的思想。可以认为是一种现实理解的表现。某种推动性的,远远超过人类推测或算计的现实存在,是不可思议的或者说是不能思议的。)
たとえば、「今」というこの時間も、無数の事象のつながりで成り立っています。そして、さらに掘り下げれば、私たちがこの世に生を受けたということも、思慮をはるかに超える無数の事象のつながりがあって存在します。そして、その無数にある事象の一つでも欠けてしまえば、私たちの「いのち」も「今」という時間もないのです。
(比如说,“现在”这个时间,由无数的现象连接而成立。假如进一步探讨下去,我们在这个世界上生存,也是由远远超出思虑的无数事像的联系而成立。并且无数存在的事像某一个环节缺失的话,我们的“生命”,以及“现在”的时间都将不存在。)
そう考えてみると、本当にすべての物事は当たり前ではないと、改めて気がつかされます。しかし、ここで「問題なのは、その事象に自分の物差しや都合で、よし悪しを判断してしまう私たちのエゴです。基本的に事象自体にはいいも悪いもないのです。
(这样来考虑的话,会再次发现所有的事物存在不是理所当然的。但这里“所有的问题只不过是根据自己对事物的标准或状况作出善恶判断的自我而已,事物本身基本上是没有好也没有坏的。”)
これらを踏まえると、二つ目の意味の「せっかく」の説明は必然的に長くなり、その英訳の表現も多様になりますが、私のオリジナルでは「Being provided by an incomprehensible power/working.」(思慮できない力/はたらきによって与えられた)と表現したいと思います。
(基于这样的思维,第二个“せっかく”意思解释必然会变得很长,其英语的表达也会呈多样性。用我的独创,我想译成“Being provided by an incomprehensible power/working.”[不能考虑的力量/由功能带来的])
こうして見つめ直してみると、私たちの日常生活の中は「せっかく」だらけです。しかし、物が溢れ、私財があれば何でも簡単に物事ができるようになってしまった今日、私自身、感覚が麻痺し、その「せっかく」の意味を通した感謝の気持ちを忘れてしまうことがあります。正常な感覚を取り戻すためにも、物事の表には現れない、その背後にあるものに意識を向けられる目を養っていきたいと思います。
(这样重新审视的话,我们的日常生活中全是“せっかく”,但,物质丰富拥有私有财产的今天,任何事情都可以轻而易举地成为某种事态,我们本身和感觉有时会变得麻痹,通过这个“せっかく”来体现的感谢的心情被遗忘了。为了恢复正常的感觉,我觉得需要培养那种面向不是呈现在外表的,而是能洞穿深涵在背后的事物的意识和眼光。)
「せっかく」は、日本人が深い感謝の気持ちを表す言葉の一つなのかもしれません。
(“せっかく”也许是日本人表示深沉感谢的语言之一。)
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